おはようございます。
今日は「悪口」に関して書いていきたいと思います。人間なら悪口の一つも言ったことがあると思います。それは、学校の友人や身近な家族、先生や上司など多岐にわたると思います。人間ですから嫌いな人間ができるのは当たり前で、もし人間誰しもが仲良く生きられるなら、喧嘩や戦争は起こりません。これは想像にたやすいことですよね。
今日書きたいことは悪口なんか言わずに、みんなで仲良くやろうよ的な温いこといいません。人間ですから、好き嫌いはあます。その中で、自分の品を下げずにいくためには「悪口」を拡散するべきではないということを話したいのです。なんとなく「悪口」とは、仲間意識を高めるものとして使われているように感じます。あなたもあの人が嫌い、私もあの人が嫌いのような連帯感の確認作業に使われることがあります。凄く滑稽だなと思ってしまいます。嫌いを共有する意味はあるのでしょうか?
昔学校にリーダー的な存在の彼がいたのですが、何かにつけては誰かの文句を言っていました。みんなしぶしぶ同調していたのですが、最終的には彼が仲間外れになりました。結局文句をいいすぎて、みんなに疑心暗鬼を植え付けてしまい、自滅したのです。よく考えればわかりますが、悪口を言われた相手がどう思うかまで考えられていないのだと思います。それは、いわれた相手も自分がいないときに悪口を言われていると思うのは自然な事です。それが最終的に彼の孤独を生みましたし、彼の存在価値のようなものを無にしました。もともと存在価値のようなものも幻想なのかもしれませんが。
悪口といいますか、嫌いな感情は誰かと共有するものではないと思っています。共有するなら楽しい話題を共有したいと私は思います。嫌いなら嫌いでかかわらないようにすればいいだけです。悪口を共有した相手が悪口対象のひとを嫌いである可能性の方が低いので、結果として気持ちいい物ではありません。悪口は自分の中に納めておくか、全く関係ないところの第三者に言うぐらいにするのがいいのかもしれません。理想は言わない方がいいですが、それはそれでストレスがたまるかもしれないので考えるべきかもしれません。
私はいろいろなひとが世の中にはいるというぐらいの感覚で生きています。悪口で自分の価値をさげるくらいなら、自分の価値観や考え方を変える方がいいかもしれません。
では。